大先輩ママにきく

私の子育てストーリー

子育ての大先輩に、経験談を語っていただきました!

育児書とは違う、等身大の子育てをお届けします♪

 

たかつ子育てサークルバンブーキッズ有志による「おばあちゃんの子育て知恵袋を聴く会」では、子育てを卒業された女性にインタビューをし、子育ての思い出を記録しています。先輩方の泣いて笑って子育てした経験談は、まさに「子育て知恵袋」。年代を超えて、子育てや女性としての生き方のヒントになれば幸いです。


ご感想や活動に興味のある方は、bamboo.kids2012@gmail.comまでメールをいただけると励みになります。

 

●田中桃代さんvol.4 「仕事と子育てのあいだで」

子連れで仕事に行く

子どもが小さい頃、私はフリーの助産師として、地域母子保健に携わっていました。保健所でお母さんの相談業務をしていたので、その時は子どもを実家に預けていたの。娘は、私が迎えに行くまで私の両親におむつを替えさせなかったようです。私じゃなきゃ嫌だったみたい。

正職ではなく単発の仕事だったから、子どもを保育園に入れられませんでした。誰も預け先のない時は、子どもが熱をだしても連れていきました。

仕事で育児の話をする時も、子どもを連れて行って、子どもをモデルにして教えたのよ。熱のはかり方とか、肛門計の使い方とかね。子どもと一緒に活動していましたね。

子どもの意外な一面を発見

小学生の時は学童に入れていました。学童の夏休みイベントには、夫がすべて参加してくれました。私は仕事でした。中学生になると、自分のことは自分でやっていました。

だから、子どもの知らない面がいっぱいありますよ。多摩区の小学校に転校した時、地元のお相撲大会があったの。「出て」と言われたので息子が出たのよ。普通は尻込みすると思うんだけどね。出て負けてきた。でも、息子はそれで腐るわけじゃないのね。小学校ではイベント係や司会をやっていました。親は、引っ込み思案の子だと思っていたから、自分の子どもの能力を見て感心しましたね。

自主的にカレーをつくるようになる

運動会の時、お昼にお弁当を持って行くでしょう。私は料理が苦手で、お弁当の用意がお昼に間に合わなかったのよ。

子ども達は、私が苦手だというのが分かっているから、食に関して要求しなかったですね。だからうどん屋さんで出前を取ったり、崎陽軒の焼売弁当を買ったり、それなりに喜んで食べていました。

そのうち、子ども達が自主的にカレーライスを作るようになりました。「自分達、死んじゃうから」ですって。

母の背中を見て…

自分としては、子育てをした意識がないのよ。だから、「自分の子育てこれで良かったのかな」と思うこともあります。でも……そうね。もし戻れるとしても同じような子育てかも知れませんね。どちらかというと自分の仕事を中心にして動いてきたのかしら。家族の理解があったからでしょうね。

子ども達は、私の仕事の忙しさや大変さを理解してくれましたね。看護学生を育てるという、人様の役に立つ仕事をしていると思っているから、応援するというか何も文句を言いませんでした。だから、私の背中を見てくれていると、勝手に解釈してるのよ。ふふふ。

●田中桃代さんvol.3 「成長期の子ども達」

習い事

娘にはピアノをやらせました。でも、本人がやりたいと言ったわけじゃないから、娘は心の中では反抗していたと思います。先生に100回練習しなさいと言われたのに、「しません」と返したみたい。先生が怒って、「来なくていい」みたいなことを言われました。

私自身に、ピアノに対するあこがれがあったのね。それで、好きな曲だけを弾かせてくれる先生を見つけて、そこに行かせました。ピアノは、娘がもう弾かないからと言って、いま物置になっています。

1人目の娘の時は、なんでも世間一般的に塾に行ったり習い事をしたりしたけど、ことごとく全滅しましたね。だから、2番目の息子には何も言わなかったし、どこにも行かせませんでした。

犬が出迎えてくれる生活

多摩区に引っ越してからは、私の仕事が忙しくて、子ども達はまさにかぎっ子でしたね。

引っ越した1年目に犬を飼いました。子どもが「犬が欲しい」と言うので、ペットショップに買いに行ったの。シェットランドを飼いたいと言っていたけど、クマみたいな犬が檻に入っていたのね。それを「ちょっと抱いてみるか」って抱いたら、もう気に入っちゃって。買って帰りました。血統書のない雑種でした。クマにはならず、キツネ顔になりましたけどね。

子どもが「ただいま」という時に犬がいる環境、応えてくれる環境があったのは良かったなと思います。

横にそれず警察官に

息子が中学生の時、担任の先生が、うちに生徒達がたむろしているみたいな言い方をしたの。「何か悪い影響があったのかな」と心配したけど、たいしたことではなかった。子ども達は集まってはいるけど、全員ばらばらのことをしてるんだよね。ゲームをしてる子、テレビをみてる子、本を読んでる子、全部ばらばらなの。

結局、横にそれることもなく、息子は警察官になりました。高校の時に、先生から「進路を聞いたことありますか?」って言われたの。聞いたことなかった。聞けば、小学校三年生の頃から警察官になりたかったんだって。へ~って聞いちゃった。

夫が、警察官は大変な仕事で殉職した人もいると話して聞かせたり、どうして警察官になりたいのか作文を書かせたりしましたが、息子の志望は変わりませんでした。今は警視庁で働いていますよ。

●田中桃代さんvol.2 「子育ては団地がしてくれた」

団地の子育てサークル

子どもが小さい頃、我が家は横浜の団地に住んでいました。その頃は幼稚園が二年保育でした。だから、団地内には、三歳児の親達で作った子育てグループがありました。そこに来た人達と、今でいうママ友になって、毎日のように集まっていました。

お母さん達は結婚・出産前にいろいろな特技を身につけてきているでしょう。それを大事にしようということで、ヨガを教えたり、籐手芸を教えたり、ピザを教えたりする人が出てきました。その人のお家に行って、ワンコインで教わったものよ。

ご近所で子どもを預け合う

組織的ではないけれど、どうしても自分の仕事で子どもを預けたい時、団地の人にお金を払って預けたこともあります。自分もお金をいただいて仕事をしてくるから、子どもを預かってくれる人にもなにがしか払いましたね。

子育てに適した環境

団地は敷地が広くて、棟と棟の間が離れていたから、夜中に子どもが泣いても気になりませんでした。芝生もあったから、よい遊び場になりましたね。周囲が、子どもを嫌がるような環境ではなかったのね。

幼稚園に入園するころから、親がいなくても友達同士で遊ぶようになりました。息子は、お友達が呼びにくると「はい、いってきます」と言って行くけど、すぐに帰ってくる。他の子の遊びについていけないのかなと心配することもあったけど、別に仲間はずれになるわけではなかったですね。

近所の友達を呼んで誕生会

昔は、近所のお友達を招いてお誕生会をやりました。結構、親が大変でしたよ。お料理を作らなきゃいけないし、手作りでお返しを用意しなくてはいけない。幼稚園のコップを入れる袋を作ったり、一人一人にお土産を作ったりするの。それだけ時間があったんでしょうね。子どもが幼稚園の時ですね。

ご近所さんと助け合いの精神で

娘が小学校中学年ぐらいの時かな。具合の悪い娘を背負って病院に連れて行かなくてはいけなかったの。子どもの体が重くて、やっとの思いで連れて行ったら、それを見た近所の人が帰りに車で送ってくれました。困ったときに、近所の人が知らん顔ということはありませんでしたね。

自分で育てたというよりも、周りの人が子どもを見てくれた感じね。孤立はしてなかった。困ったときには、助けてもらってきたと思っています。だから、私がどんな子育てをしたかと聞かれても「してませ~ん、団地がしてくれました」なのよ、ふふふ。

●田中桃代さん vol.1 「助産師さんの先進的な子育て」

ベテラン助産師さんのインタビュー第2弾!

高津駅近くでコミュニティーサロン「しゃべり場」を運営されている田中桃代さんに、子育ての経験談を語っていただきました♪

散髪して面会にくるお父さん

私は、昭和五四年に娘を、五七年に息子を出産しました。娘をお産した時、夫は散髪して面会に来たのよ。朝八時半に病院に送ってくれて、会社が終わる頃にはもう生まれていました。すぐにとんで来るかと思ったら、いつまでたっても来ないの。「何してたの?」と聞いたら、赤ちゃんに初めて会うから床屋に行ってきたんだって。生まれたばかりの赤ちゃんなのにね。

当時めずらしかった抱っこ紐

私がお産した昭和五〇年代頃から、抱っこ紐が登場しました。それは今のような進化した抱っこ紐ではなくて、災害時用の抱っこ紐でした。

関東大震災や戦争の時、お母さんは赤ちゃんをおんぶして逃げていたの。でも、後ろの子の顔が見えないから、子どもを降ろしてみたら亡くなっていたということがあったのです。

だから、おんぶも抱っこも両方できる紐が発売されました。これを、初期の頃に手に入れることが出来たのです。

抱っこ紐で子どもを抱っこすると、手があくでしょう。それで両手に荷物を持って歩いていると、周りのおばあちゃんがとんで来るのよ。「赤ちゃんがおちる!」って言ってね。当時はめずらしかったのよ。

成形おむつと貸しおむつ

1人目の時は、布おむつを使いました。輪型の布おむつではなくて、ひょうたん型の成形おむつ(ベビーネンネ)です。仕事柄たくさん手に入れられたの。

布の貸しおむつも使いましたよ。2、3日に1回、業者さんが、布おむつを何十組か置いて交換してくれました。費用はかかりましたね。

紙おむつの登場

2人目の時は、発売されたばかりの紙おむつを使いました。でも、おむつはおしっこやうんちをするたびに、毎回替えていましたよ。

私が看護学校で教えていた時、学生の手に濡れたおむつをあてさせたの。そして90分間そのままにさせて、どんな感じになるか実験しました。とても気持ちが悪くて着けていられない。何時間も濡れたおむつを着けたままで良いのか、自分の感覚で判断して欲しいですね。

誰のための育児用品?

助産師会の勉強会では、育児用品を出している会社が宣伝がてら説明に来てくれます。でも、赤ちゃんのためではなくて、ほぼお母さんのための育児用品なのね。「これは赤ちゃんにどう作用するのですか」と聞いても、育児用品の会社の人は答えられなかった。そこを、お母さんがどう選ぶかが大切だと思いますよ。

田中桃代さんプロフィール

1948年川崎市に生まれる。1978年ご結婚。1979年長女を、1982年長男を出産。

フリーの助産師として地域母子保健に携わるほか、看護専門学校で学生を指導するなど忙しい日々を送りながら、2人のお子さんを育てられる。現在、コミュニティサロン「しゃべりば」を運営、子育て相談に応じている。

 

●鈴木寄里枝さん vol.4  「自立させるのが子育て」

日本一になれと願って

私は、子どもが偉い人になるようにと願っていました。政治家になるかなと思って、生後1ヶ月で息子に国会議事堂を見せたのよ。「あんたの働くところはここだ」と言ってね。富士山を見せて「お前は日本一になりなさい」と言ったこともあります。

子どもにかける思いは結構あったけど、成長したらあまり偉くなかった。でも、「写真のたなかや」を継いでくれたから、良いかなと思っています。息子は、跡を継ぐことを「宿命」だと言ったのです。

育児書のようには育たない

子どもによって運命は違うわね。親の思うところと全く違う。でも、それが楽しいんじゃないかなと思います。子育ては決して育児書のようにならない。子どもを立派にさせようと思っても、そんなことは出来ませんよ。

子どもが小さい時期は、愛情だけ示しておけば、必ず分かってくれると思います。正直な心と素直さを持てば、立派に育つと思いますね。

 

自発的な子どもに育つ

子ども達は何事も自発的でした。当時、公立中学が荒れて、警察沙汰になったこともあったのです。本人が「公立に行きたくない」と言って、私学に行きました。小学生だったけど、塾の先生と相談して学校を自分で決めました。書類も全部自分で書きました。私は写真を用意するだけで、一切手をかけませんでした。それはすごいなと自分でも思う。うちの子はしっかりしていると思います。

今のお母さん達に伝えたいのは、「子どもを自立させてください」ということ。小学校に入ったら、「自分でしなさい」と言わないと自立させられないですね。絶対に自立させることは大事ですよ。


自立させる、手をかけない、愛だけあげる

大事なのは子どもを「見ている」ということでしょうか。何もかも子どもにしてやるという「してやる」ではなく、この子は何を考えているのかなと、ちゃんと見て聞いてやるのが大切だと思う。

手はかけないで良いから、見てあげることが大事。そして、愛情を子どもに与える。生まれたら、一番最初に愛をあげてください。母乳が出るのなら、母乳をしっかり飲ませてくださいね。


記憶は生まれた時から

私は、自分が母親のお腹から出てくるところを覚えています。胎内記憶がちゃんとあるのよ。記憶は生まれた時からある。赤ちゃんだから全然分からないのではなくて、全部分かっているのよ。だから大変な思いもするけど、ありがたいなと思って子育てしていってくださいね。

●鈴木寄里枝さん vol.3 「反抗期の子どもに向き合う」

子ども達の反抗期               

子ども達は3人とも、すさまじい反抗期でした。でも、みんな要領が良かった。私が「今、何をやってるの?」と聞くと、息子は「僕はこういうことをやっているけど、別に悪いことをしてないから良いでしょ」と言うの。だから私は「どうぞ」と言う。

娘が「私、学校を替わりたいんだけどな」と言うから、「あ、そう。どうぞ」と言いました。それで高校を中退して、違う高校に行きました。

もう一人の娘も「私、アメリカに行きたいんだけどな」と言うから、「どうぞ」って。娘は「英語の勉強をしたい」と言って、アメリカに渡りました。英語がペラペラになって帰ってきましたよ。

「子どもをこう育てよう」と思っているお母さんがいらっしゃるけど、思う通りになんていかないものよ。

おおいに反抗させる

反抗期には、反抗させてあげてください。「どうぞ、反抗してください」と子どもに言ってやってください。子どもが「別に」なんて言い出したら気をつけなくてはならないけど、「別に」という言葉を出さない限りは構わないですからね。

「嫌なら嫌で結構、でも家は出て行かないでね。食べるところないよ、あなたの力では何も出来ないよ」とその子の力を示してあげてください。そうすれば絶対に大丈夫だから。うちの子は、3人ともみんな変わりました。

親の務めは子どもの成長を助けること

よく道端でひっくり返っている子がいるじゃない。あれもじーっと見ておけばいいのよ。「イヤならイヤで良いよ。何が不満なのかお母さんには分からない。あなたが自分で考えなさい」と、その段階で子どもに考えさせる。だって親は何も出来ないんですから。そこは大人と小人(こども)の闘いよ。一人の人間と思うのよ。

子どもには成長する力があるのだから。成長を助けるのが親の務めだと思いますよ。

絶対許せないときはバッチーンと

子どもが悪いことをして絶対に許せない時は、一度バッチーン!とやりました。息子が小学3年生の時に、お店のお金を取ったの。ものすごく怒りました。それから一切しなくなりましたね。

学校の先生によると、小学3年生の時にいろいろな芽が出るそうです。悪い面も良い面も出てくるから、小学3年生は気をつけなさいって。その頃に一番可愛がっておくのが大事みたいですよ。

肉体的な成長は、美味しい物を食べさせておけば良いじゃない。でも精神的なことだけは、ぜひ親が見ていって欲しいと思います。

●鈴木寄里枝さん vol.2 「赤ちゃんの世話はシンプルに」

さらしの布おむつ

当時、おむつはサラシの布おむつを使いました。浴衣をほどいて縫ったものです。洗濯して干して、そこに良さがあったのよ。

子どもを子ども用の椅子に座らせて、「あなたのおむつを洗濯して~♪このおしめ、いつになったら外れるか~♪」と歌いながらパンパーンッと干していくの。だから子ども達は歌が上手、3人ともとても音感良好ですよ。

お尻はお湯で洗うのが一番

当時は、お湯でお尻を拭いていました。お湯が一番きれいですからね。私は今でも、お尻ふきを買いなさいと教えませんよ。ポットのお湯でほどよく冷まして、それで拭いてやればいいじゃない。お尻ふきにどんな薬が入っているか分からないし、もしかしたら、アレルギーを起こすかもしれない。皮膚に湿疹のある生後1ヶ月の子どもには、全部お湯でやってくださいと言います。お尻ふきの薬が合わなくて、変になる子はいっぱいいますから。

だから、シンプルイズベスト。シンプルに子育てをするのが一番良いと思いますね。お金は使わない。

3歳まで母乳を飲ませきる

授乳はすべて母乳です。子どもが3歳になるまで飲ませていました。2人目、3人目の間が空いているので、みんな母乳を飲ませきりましたね。

今のお母さん達に言いたいのは、母乳が出るのなら、母乳をしっかり飲ませて欲しい。そして誰が何と言おうと、子どもが卒業するまでいつまででも飲ませてあげてください。お乳が出ないと思う心が出ないのです。

離乳食作り

子どもの離乳食作りは簡単にやってましたね。お味噌汁の上澄みをとったり、おかゆにしたり、卵とじにしたりしました。お姑さんが口移しでご飯をあげていたけど、それだけは断りました。「ばあばにされるの嬉しいんだけど、ばあばの口の中に何が入っているか分からないから。子どもにうつるからそれだけはやめて」と、助産婦として言いました。お姑さんも受け入れてくれました。でも、陰でやってましたね。

お宮参りと初節句

お宮参りは溝口神社でやりました。家が写真館なのでとても素敵な写真がありますよ。妹が洋裁師なので、お祝いにブルーの洋服を作ってくれたの。それを着て、溝口神社に行きました。

お姑さんが、子ども達に素晴らしいお雛様と兜セットを買ってくれました。甲州屋さんで一番良いのを買いました。娘達にも一揃いずつあるのよ。今はみんな「写真のたなかや」で使っています。

●鈴木寄里枝さん vol.1 「助産師さんの妊娠・出産」

新連載!

今月から、ベテラン助産師さんのインタビューが始まります。

高津駅近くでコミュニティーサロン「しゃべり場」を運営されている鈴木寄里枝さんに、子育ての経験談を語っていただきました♪

お参りをして授かった子

私は、1975年に長女、1979年に次女、1982年に長男を出産しました。

なかなか赤ちゃんが出来なかったので、文京区飛鳥山にある「赤ちゃん寺(正式名称は正受院)」にお参りをしました。人工妊娠中絶の供養や胎盤処理もしてくれるお寺なのですが、そこにお参りをして、子どもを授かりました。お参りをしたら、その月にちゃんと妊娠していたの。子どもは3人とも神仏にお願いして出来た子、いわば“申し子”なのです。

辛かったつわり

つわりは本当にひどかったですね。子ども3人とも、出産するまでつわりがありました。テレビコマーシャルで、ご飯の映像を見ただけでも「ウエッ」となっていました。それから、街中のドブの臭いや化粧の匂いでも気持ち悪くなっていました。つわりには本当に苦しめられて、いまだに忘れられません。ちょうど、次の生理が来ないなと思ったら、もうゲボゲボしていましたね。

「悪太郎」の出産

出産は本当に痛かったです。あまりに痛いから、赤ちゃんを「悪太郎」(荒々しい男、乱暴者のことを指す)と呼んでいたの。女の子だったけどね。ふふふ。

「この悪太郎! お母さんをこんなにいじめて! 痛いじゃないの!」と言いながら、陣痛の間隔を計りました。私は、声を出して産むのが楽だったの。子どもは3人とも「悪太郎」でしたね。でも、「悪太郎」が出てきた時は、嬉しくて泣きましたね。

産後の生活は安静に

1週間入院して、家に帰りました。家では赤ちゃんの世話は全部自分がして、あとは寝ていました。床上げの日にちをきちっと守って、産後21日で床上げしました。床上げまでは、お姑さんが家事をしてくださったのよ。

「床上げまで頭を洗ってはいけない」というのは迷信です。清潔にしなくてはいけないから、私は洗っていました。でも、胎盤が出来てお腹の赤ちゃんが出るお産は、血流が変わるのよ。血流が変わるから安静にしておくの。

助産婦の時、私は「3日間、申し訳ないけど俗世間を離れてください」と言って、本や新聞、テレビやラジオを一切やらせませんでした。「寂しいでしょう」と雑誌を持ってくるお客さんがいても、「本など持ってこないでください」と言いました。産婦さんの目が悪くなるし、なにより疲れます。

本当は、3日間は面会謝絶にしたいのです。家族以外お見舞いに来るのは3日以降から。それまでは気遣いしてあげてください。



鈴木寄里枝さんプロフィール

1946年香川県に生まれる。順天堂看護学校から東京大学助産婦学校卒業後、ふたたび順天堂大学病院に勤務。1974年「写真のたなかや」ご主人と結婚。1975年長女を、1979年次女を、1982年長男を出産。三人のお子さんを育てながら、家業を盛り立ててこられる。現在、コミュニティサロン「しゃべり場」を運営、子育て相談に応じている。

●鴈野久美子さん vol.4 最終回

0歳から100歳までがお友達

私のモットーは、「0歳から100歳までがお友達」。自分が出来ることはほんの少しだけど、人から学ぶことは多いですよ。

そして、自分のやれることには限界があるから、自分が出来ること、出来ないことを自分で見分けました。良いこと、悪いことを判断するのも自分です。だから、「これは自分には合ってないな」と思うことは、それはそれで置いておく。「これはすごい、これは自分にできるかな」と思ったら、それを重視して学ばせてもらいましたね。

誰にも平等に与えられた1日24時間。その時間をどう過ごすかということですね。やっぱり、明るく楽しく、いい1日で終わりたいじゃない。人と話をして笑うことって良いことじゃない。そうやって過ごしたら、気分も良いですね。

落ち込んでもまた立ち直る

当然、落ち込むこともありますよ。もちろん人間だから、どーんと落ちる時もある。良かれと思ってしていることを、良く理解してくれない人もいます。思いもよらないことを言われて落ち込むこともある。でも、自分がしっかりして、間違えたことをしてなければ、これでいいんだと自分に言い聞かせてます。

前に病気を患って、治療の副作用で自律神経をやられてぐーっと落ち込んだこともありました。「もう人と会いたくない、見たくない」と2、3ヵ月くらい落ち込みました。それでも、友達に支えられたり、ボランティアで外に出て少しずつ自分を取り戻していきました。

現役ママへのメッセージ

現役のママに向けてメッセージですか。そうですね、子どもを育てるのが煩わしいとか嫌だとか面白くないとか、そういう気持ちを持ってしまうのは残念なことですね。理屈でなく、自分の子をとにかく抱きしめていこう!という気持ちで、皆さんには子育てしていって欲しいですね。

人との関わりを大事にして生きていく

私の母はよく「人を見たら頭を下げなさい。挨拶しなさい」と言っていました。頭を下げられて、怒る人はいないと言うの。そして、「お年寄りは大事にしなさい」とも言っていました。おじいちゃんおばあちゃんは話しかけられると嬉しいんだから、声をかけてあげる。人には声掛け、人を見たら挨拶というのは、子どもの頃から言われました。

やっぱり、人と関わっていると楽しいですよ。良いことがいっぱいある。人間的にぶつかるところもあるけれど、いろんな考えの人がいるわけだから。それは自分で選択していけば良いと思う。私は、人間の関わり合いを大事にしていきたいなと思っています。

※次回から助産師さんのインタビューが始まります。お楽しみに!

●鴈野久美子さん vol.3 「子育てで大事にしたこと」 

子どもたちの反抗期

子どもたちの反抗期は、記憶にないですね。

一番の反抗期だという中学生の時も、息子は部活に没頭していました。卓球部の朝練夕練をやって、「あ〜腹減った」と家に帰ってきて、そしてご飯を食べて寝るだけ。帰るとすぐ寝間着に着替えるから、部活の体操着と家の寝間着しか着てないの。だから、みんなが心配するような流行のファッションをする暇がなかったのね。


心の優しい子になって欲しい

子どものしつけは、それほどうるさく言わなかった気がします。でも、こういう子に育って欲しいという願いはありました。それは、心の優しい子。人の痛みがわかる子。きれいごとだけど、そういう子に育って欲しいと思いましたね。


出会いを大切に

娘一家は転勤族なので、三~四年で新しいところに引っ越すの。そして、行った先々で新しいママたちとの出会いがあるでしょう。娘には、「友達を大切に、出会いを大切にしなさい」と言っています。

初めて会った時のインスピレーションってあるじゃない。「あ、この人、私と合うかな」と思うとき。だから、良いなって思う人とは大切にお付き合いしなさいって言っています。友達は財産だと思っていますからね。私は大切にしたいと思った人とは、付き合いが長いですね。


孫たちの成長を見守って

孫たちが小学生の時は、お遊戯会や運動会に欠かさず行っていました。娘一家が転勤で熊本や金沢に行っても、孫のお遊戯会や運動会には行っていました。

今は、息子の孫が中学生になったけど、中学校の運動会は家族も見に行かないでしょう。寂しいわね。孫自身、今までは「わぁっ!」と言って来ていたのに、中学生になると無口になるしね。ちょっと距離が出来てしまった感じで、寂しい思いをしています。

でも、孫たちが小さい時は小さい時なりに交流ができて、楽しい思い出をいっぱい作ってきました。だから、それはそれで、孫たちの成長だなって思っていますよ。


子や孫の幸せが最高のプレゼント

みんなが健康で元気でいてくれたら、それが私たち夫婦の幸せだと思います。息子・娘夫婦が仲良く、子育てをちゃんとしているのを見ることが、私たちにとって一番の幸せだと。孫は、頭が良くて何ができるとかの自慢じゃなくて、元気に明るく育ってくれればそれが一番ね。夫婦で仲良くそういう家庭をつくってくれたら、「それが私たちに対するプレゼントだよ」と子どもたちに言っていますよ。




●鴈野久美子さん vol.2 「三世代同居の暮らし」

義両親との同居生活に飛び込む

私は、結婚と同時に主人の親・妹と同居しました。大変なこともあるけど、とても良い勉強になりました。舅姑は、自分の親とまた違う親という感覚ですね。

考えが違うこともあるけど、良いこともいっぱいありました。いろいろな苦労をして世代を越してきた人だから、古臭い考えではなく、「そうなんだ」と思えることが結構あるのよ。

なにより、同居すると自分が引き締まりますよ。一回りも二回りも成長します。

 

祖父母と孫が同居する良さ

親は、子どもの言動を善し悪しで見て叱ってしまう。それだけでは、子どもの逃げ場がないわね。

でも、祖父母が優しくしてくれれば、叱られても子どもが逃げていけるでしょ。それって、子どもの安らぎになるわね。「いけないことはいけない」と教えなくてはいけないけど、そういう場所があって良かったと思っています。


義母との役割分担

結婚当初は、鴈野家のやり方を勉強させてもらいました。私は宮崎出身だし、自分の育ってきた家庭と本当に違うのよ。だから、最初は私が横でお茶碗を洗いながら、義母の料理を見て味見をさせてもらって覚えていきました。それから、いつの間にか私が食事を作り、義母はお茶碗を洗うようになりました。分担を決めたわけではなくて、生活の中で自然といい感じになったのね。


義母への気配り

義母は料理が好きでした。歳を取って体の自由が利かなくなっても、たまには自分で料理をしたいのね。

そういう時に「やらなくていいです」と言うのは、ものすごく相手を傷つけてしまう。だから、「お料理やりたいなら一緒にやりましょう」と一緒にやりました。


介護をしながらのボランティア活動

介護をしている時も、少し自分の時間を貰っていました。ケアマネージャーさんに相談して、義母のデイサービスの日を決めて、その日を自分のボランティアに当てていました。子育て支援ボランティアでは、若いママのエネルギーとかわいい赤ちゃんのパワーをもらって、とても支えられました。


義両親を看取る

そして、義父母を看取りました。人はいずれ老いて動けない体になって、最後どうなるか分からないじゃないですか。人生の最後を一緒に歩いてきたことは、非常に自分の勉強になりました。こうあって欲しいと思って、そうならないのも人生ですから。最後まで一緒にいたいから、主人の兄妹たちからも感謝されました。私としても、良い人生を歩んできたなと思います。


 

●鴈野久美子さん vol.1  「1970年代の出産・子育て」

新婚旅行前のハネムーンベイビー

私は、1971年3月に結婚して、その年の12月に長男を出産しました。結婚してすぐ妊娠したから、ハネムーンベイビーみたいね。でも、新婚旅行には行ってなかったの。結婚式のあと、ハワイ旅行を予約したんだけど、妊娠が分かって行けなくなったの。だから、子どもが授かって嬉しい気持ちと、初めての海外旅行に行けない悔しさと、両方が思い出ですね。


出産は京浜総合病院で

武蔵新城にある京浜総合病院で出産しました。一週間くらい入院したかな。病院では、母乳育児を奨められました。最初は私も母乳が出たんだけど、出なくなってすぐ粉ミルクに切り替えちゃった。私たちの頃には粉ミルクがあったから。もっと昔の世代は大変でしたよ。私が赤ちゃんの時、母は母乳が出なくて貰い乳をしたり、お米のとぎ汁を飲ませたりしたみたい。私たちの時代に、そういうのはなかったわね。


赤ちゃんのお世話は親戚と一緒に

産後は、おばあちゃんと主人の姉が来て、赤ちゃんを沐浴してくれました。ご飯を食べるテーブルの上にベビーバスを置いてつからせて、それをみんなで見ていたの。王子様みたいに扱っていたわね。親戚がみんな近くに住んでいたから、手伝ってもらいました。


布おむつとゆっくりおむつはずし

私の時は、布おむつを使いました。自分でおむつを縫うんだけど、お祝いで手縫いのおむつをいただくこともあったのよ。真心を感じましたね。おむつは浴衣の使い古しで縫うのが、柔らかくて一番赤ちゃんに良いって、おばあちゃんに言われました。

 おむつ外しは、わりと自然に任せました。いつまでに取らなきゃいけないとか気にしなかった。三歳くらいまでを目安にしていましたね。おばあちゃんから、遅いと言われなかった気がするな。あまり口を出すタイプじゃなかったのね。


夜泣き・赤ちゃんがえり・離乳食

子どもが夜泣きをすると、やっぱり周りを気にするよね。夏の暑いときは、抱っこして涼しいところへ行ったり、お散歩したりしました。

長女が生まれたとき、お兄ちゃんが赤ちゃん返りをした記憶はないわね。おじいちゃんおばあちゃんや、主人の妹もいる家族の中で育っていたから、自分に目が向けられなくなったと感じなかったのかしらね。

離乳食は、そんなに気をつかわなかった。おみそ汁の上澄みや、うどんを小さく切ってあげました。でも長女は大食漢で、うどんを切らなくてもずるずる食べる子でした。





鴈野久美子さん

1947年 宮崎県に生まれる。1971年 結婚とともに川崎市に移られ、その年にご長男を、1974年にご長女を出産。専業主婦のかたわら、ながく子育て支援ボランティアに携わり、現在「すくすく子育てボランティア バンビ」・「新作第二自治会 めばえ会」・子育てサロン「 ゆうゆう広場」等でご活躍中。